3 幸せへの住宅行脚
山口さんとの出会い
山口さんは、東京からつくば市に越してきた方だ。すでに定年後で、八〇歳を過ぎた母親と二人暮らしだ。山口さんの住替えの物語は、波瀾万丈だ(注7)。
私の研究室の電話が鳴ったのは、建物完成の二年前、平成六年の七月だった。『読売新聞』の「一緒に建ててみませんか・新型格安マンション」と題した小さな記事を目にした山口さんからの電話だった。
山口さんの話によれば、「普段は新聞などよく見ないのに、たまたま、その日は記事が目にとまった。それも、小さな記事だった。それが私の人生を変えることになったのだから、運命はわからないものですね」。
最初の電話の声は今でもよく覚えている。疑心暗鬼の声だった。
「どんな方式ですか」「誰が建てるのですか。公団ですか」「どこに建つのですか」。
無理もない。その時点では、土地を提供する地主が決まっていなかった。要するに、実現できるかどうかも定かではなかった。それに、事業主は入居者自身。つまり建設組合が事業主になるという方式は、ひと言で説明できるものでもない。
私の説明も、歯切れが悪かったろう。それでも、山口さんは詳しい説明を聞きに、つくば市の研究室までわざわざやってくることになった。
その熱意は、いったいどこからきたのだろうか。
暗転した理想の住まい
山口さんは、六年ほど前まで東京・品川区の戸越銀座でディスカウント・ショップを経営していた。店をたたんだのは、母親が一人で外出できなくなったことが引き金になったという。子供はいない。店と一緒に自宅も処分して、住み慣れた土地を離れることにした。
それからが、山口さんと母親の流浪の旅の始まりだった。
最初に引退生活を暮らす場所として選んだのは、神奈川県の茅ヶ崎市で、海岸から三〇〇メートルのところに探し当てた新築の一戸建だ。海辺に住むことは、山口さんの夢だった。バブルの頃に財産を処分したおかげで、夢のイメージが実現したわけだ。
しかし、茅ヶ崎に来て二年が過ぎた頃から、その夢が急速に色あせていく。
それは、ある日突然のことだった。母親が浴槽から出る時に、浴槽の縁に後ろの足首がひっかかってはずせなくなり、洗い場に頭から逆さまになったまま二、三〇分も声を出せずにいたのだ(図6)。かすかな声がリビングにいた山口さんにやっと届き、失神寸前のところで助けにいった。
逆向きだったら、風呂で溺死したところだ。冷や汗が出たという。在来の一戸建が、身体が不自由になった高齢者に、いかに住みにくいか身にしみたという。それでも、一戸建ならば高齢者向けに改造することもできる。少々、お金をかければ、住み続けることはできるはずだ。
山口さんが夢を断念して「ここには住めない」と意を決したのは、母親が時々口にするようになった「私は孤独だ」「私は一人ぼっちだ」という言葉だった。
この茅ヶ崎の土地では、母親はついに友人ができなかった。通院やショッピングは遠くて一人でいけないし、近くを歩いていても声をかけてくれる人はいない。いつのまにか玄関で靴を履き、「東京へ行こうと思ったの」と山口さんを慌てさせることもあった。東京には昔からの知り合いも多いし、長年住んできた戸越銀座のぬくもりが懐かしい。そんな気持ちの表われだった。
結局、海に近い理想の一戸建も、外出が不自由になった孤独な高齢者にとっては、住みにくい監獄だったのである。
都心マンションへの緊急避難
山口さんが次に選んだのは、池袋駅西口から一キロメートルのところにある賃貸マンションだった。都心派への転向だ。リビングルームが広くエレベーター付きなので、高齢者にも住みやすそうだ。
ここは通院やショッピングにとても便利であり、久しぶりの都会生活に、母親はみるみる元気をとりもどしたという。身体が元気なうちは、郊外暮らしもよい。しかし、衰えてくると都心の方が適している。エレベーターで下に降りて、そこから数分も歩けばお店や病院がある。そのような環境ならば、なんとか出歩こうという意欲もわく。
しかし、悩みの種は、月三三万円という家賃。それに賃貸では、手摺りを付けたりするのも不自由だ。このまま住み続けることはできない。
茅ヶ崎、池袋と住み替えながら、山口さんは、かなりの数の一戸建やマンションをみてきた。すべて3LDKや4LDKと決まり切った間取りで、高齢者二人向けのゆったりとした間取りのものはなかった。
自分の思い通りに注文設計したいと思えば、まず土地を買わなければならない。買える値段の場所となると、都心の利便性を捨てなければならない。
山口さんの望みは、都心のマンション暮らし。そして、高齢者向けに注文設計できるものだ。もちろん、そんなマンションはあるはずがない。
そんな焦燥感に駆られている時に飛び込んできたのが、「一緒に建ててみませんか」という新聞の記事であった。小さな記事が、山口さんに一筋の希望を投げかけてきたのである。
九月に、土地がみつかり、地主さんも新しい構想に同意してくれた。
実現するとの連絡を受けて、山口さんは、車椅子の母親と一緒に研究所を訪れた。
現在の山口さんは底抜けに明るい。しかし、最初に出会った時の印象は、悩み多き顔をしていた。当時は、つくば方式への半信半疑の気持ちと、抽選に外れたらもう二度とチャンスはないかもしれないという心配がないまぜになり、複雑な気持ちだったそうだ。
もっとも結果はというと、一二戸の募集に大して応募は一一世帯。実は全員当選だった。
一一世帯の建設組合の発足
建物の概略が決まったのは、一一月頃だった。
山口さんの希望する最上階は一〇〇平方メートルの広さで、価格が最も高い。予想価格が三四〇〇万円で、借地料が月一万六〇〇〇円だ。それでも数人の希望が重複している。これは抽選かと思ったが、幸いなことに第一志望としたのは山口さん一人だった。
こうして一一世帯の配置が決まり、事業主となる建設組合がスタートした。最初の顔合わせが、一二月三日に行われた。山口さんは、ここで初めて、みんなの前に顔を出した。
「こんにちは山口です。南棟の最上階に入ることになりました。母は車椅子ですが、よろしくお願いします」
みんなの顔はにこやかだった。ホッとしたような山口さんの顔。記念撮影をして、今後のスケジュールの確認をして解散した。
夢の住まいの実現に向けて、第一歩を踏み出したわけだ。これからは、月一回のペースで建設組合の会合がある。それ以外にも、業者と室内設計の打合わせが頻繁にあるし、建設が始まれば現場を確認したくなるだろう。東京から通うのも大変だということで、山口さんは、すぐに池袋から筑波の近くに家を借りて引っ越してきた。
建物の全体設計は、提案募集で一等になった竹中工務店と決まったが、山口さんの注文は細かい。東京の大手会社では対応が難しいため、地元の設計事務所をつける必要がある。建築家の高田正已氏が引き受けてくれた。山口さんには、追加の設計料を支払ってもらうことにした。
このコンビは試行錯誤しながら、理想の住まいの実現に向けて進んでいった。
車椅子生活に対応した山口さんの家い
あの時から、一年半の歳月が流れていた。
完成後の山口さんの感想だ。
「この家は、私が自分で設計した気になるんです。しかし、自分で描いた間取りと比べてみると、ずいぶん違うんですね。高田さんが私の要望をうまく取り入れて設計してくれたんで、自分が造ったと錯覚してしまうんです。建築家って、自分の意見を押し通すだけだと思ったら、高田さんのような方もいらっしゃるんですね。私には、理想の建築家でした」
そう言うだけあって、細部までよく考えられた間取りだ。もちろん、使っている材料に高級品はない。しかし、機能が実によく考えられている。
玄関を入ると、右手に個室、左手には車椅子用のスロープがある。スロープを上がって左手に台所と母親の寝室がある。風呂やトイレも、すべてスロープの上にある。車椅子で利用しやすいように工夫してある。ここで、母親の生活が完結できる。床を高くしたために、床暖房を設置できるのもメリットだ。
南側の一番よい場所にお風呂がある。眺めも最高だ。おそらく、日本中のマンションを探しても、これだけ快適なお風呂はないかもしれない。そのお風呂には、簀の子がついていて、これをつけると洗い場と浴槽の縁の高さを揃えることができる。
設計の特徴は、床を高くした場所と低くした場所の境界部分に手摺りを設置していることだ。この手摺りをつたわれば、どの場所でも、母親は一人でいけるようになっている。
そして、極めつけは、すべての個室にドアがないこと。
親子二人の生活だ。茅ヶ崎での経験から、母親の気配が感じられるようでないと危ないことを身にしみている。全体としてワンルーム志向の間取りになっている。
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